ジェフリー・アーチャー「100万ドルを取り返せ」 [本]
ステイ・ホーム中。
旅行もしない、美術館も行かない、友人たちとも会わない。それなのに、集中して本を読む気になれない。だから昔読んだ本のことを思い出してみた。ジェフリー・アーチャーの「100万ドルを取り返せ」だ。
これは、現実味はあまりなくて、トリッキーな騙し合いが「明るく」繰り広げられるのが、こういう時期に読むのに良い。
アメリカの大金持ちに汚い手口で財産(4人分合わせて100万ドル、約1億円というところか)を巻き上げられた4人の男が、自分の得意分野で大金持ちを騙して、巻き上げられた財産を取り返す、という話。
男は、メイフェアの画廊経営者、オックスフォードの大学教授、ハーレーストリートの医者、イギリス貴族の4人。
その得意技というのが、良いのだ。
画廊経営者は、ルノワールのフェイクを作り、高く売りつける。
学者は、大学が名誉学位を授けると騙して、高額の寄付金を巻き上げる。
医者は、皮膚の表面に手術跡だけつけて、胆石だったと石を渡し、高額の治療費を騙し取る。
そして、英国貴族は何をするか?
彼は前の3人のような専門分野が無い。最後まで、何も思い浮かばない。
しかし、どんでん返し。付き合っている彼女が、なんとその大金持ちの娘だったのだ。貴族は彼女と結婚することで、持参金として自分の金を取り返すのだ。
さらに、彼女が偽のルノワールをもらうことで、犯罪の証拠も帳消しになってしまうというオチもつく。
貴族の特技は結婚だった、というのが面白いところ。
読み進めると、ダーティな大金持ちがどことなく憎めないおじさんだったり、その娘が性格の良い、賢い美女だったり、復讐する4人もそれぞれの分野で抜きん出た魅力的な人物だったりで、本物の悪人が一人もいない明るい犯罪小説。
著者ジェフリー・アーチャーは投資に失敗して全財産を失った経験からこの小説のヒントを得たらしい。転んでもタダでは起きない人。これがアーチャーの処女作で、大ヒット作となった。
旅行もしない、美術館も行かない、友人たちとも会わない。それなのに、集中して本を読む気になれない。だから昔読んだ本のことを思い出してみた。ジェフリー・アーチャーの「100万ドルを取り返せ」だ。
これは、現実味はあまりなくて、トリッキーな騙し合いが「明るく」繰り広げられるのが、こういう時期に読むのに良い。
アメリカの大金持ちに汚い手口で財産(4人分合わせて100万ドル、約1億円というところか)を巻き上げられた4人の男が、自分の得意分野で大金持ちを騙して、巻き上げられた財産を取り返す、という話。
男は、メイフェアの画廊経営者、オックスフォードの大学教授、ハーレーストリートの医者、イギリス貴族の4人。
その得意技というのが、良いのだ。
画廊経営者は、ルノワールのフェイクを作り、高く売りつける。
学者は、大学が名誉学位を授けると騙して、高額の寄付金を巻き上げる。
医者は、皮膚の表面に手術跡だけつけて、胆石だったと石を渡し、高額の治療費を騙し取る。
そして、英国貴族は何をするか?
彼は前の3人のような専門分野が無い。最後まで、何も思い浮かばない。
しかし、どんでん返し。付き合っている彼女が、なんとその大金持ちの娘だったのだ。貴族は彼女と結婚することで、持参金として自分の金を取り返すのだ。
さらに、彼女が偽のルノワールをもらうことで、犯罪の証拠も帳消しになってしまうというオチもつく。
貴族の特技は結婚だった、というのが面白いところ。
読み進めると、ダーティな大金持ちがどことなく憎めないおじさんだったり、その娘が性格の良い、賢い美女だったり、復讐する4人もそれぞれの分野で抜きん出た魅力的な人物だったりで、本物の悪人が一人もいない明るい犯罪小説。
著者ジェフリー・アーチャーは投資に失敗して全財産を失った経験からこの小説のヒントを得たらしい。転んでもタダでは起きない人。これがアーチャーの処女作で、大ヒット作となった。
タグ:ジェフリー・アーチャー
カズオ・イシグロ「日の名残」 [本]
小説も映画も好きな作品。それに、この作品には、ちょっとした思い出がある。
まず、小説を読んだ。1992年頃だったと思う。物語は、WW2直前の時期のイギリスの貴族に仕えた執事の回想である。その貴族は、WW1以降インフレに悩むドイツへの純粋な同情心から、結果としてナチスの協力者となってしまう。終戦後は国民からの非難と失意の中で亡くなった。
執事は、自分の仕事に熱心で、自分の主人の思想に疑問も抱かず、また、同僚の家政婦ミス・ケントンとの淡い恋も逃してしまう。彼は、晩年になって、自分の人生を振り返りつつ、今は人妻となったミス・ケントンに会いに、古い車に乗って旅に出るのである。
旅をしながら、英国貴族として申し分ない人物だった主人、その主人がナチスを屋敷でもてなし、自分はそれを一世一代の大仕事として満足感とともにこなしたことなどを思い出す。
その仕事の最中に、ミス・ケントンの遠回しの告白を受けながら、それどころではなく冷たい対応をしたために、ミス・ケントンは去って行った。
仕事一筋だった人生は、今は苦い思い出となっているのである。
何かを期待して会いに行ったミス・ケントンとも、思い出を語り合うのみ。人生の落日の時、彼は今まで通り孤独であることを思いながら、また仕事へ戻っていく。
***
その翌年、ロンドンに行った時、ちょうど映画「日の名残」を上映中だったのだ。なんという偶然。神様のお導きのような気がして、大喜びで見に行った。当時、ロンドンの映画館は、料金が2種類あった。その高い方のチケットを買って、全部英語、字幕無し、の「日の名残」を観た。
私は、昔も今も英語は苦手である。それでも、原作を愛読していたおかげで、ストーリーや微妙な感情表現は全部理解できたように思う。
そんなこともあって、小説類を大幅に処分した時も、「日の名残」は残しておいた。
その20数年後、作者のカズオ・イシグロがノーベル賞を受賞した時、「日の名残」は文庫本になっていて、飛ぶように売れていた。
私は埃臭いハードカヴァーの「日の名残」を取り出して、くしゃみをしながら再読した。(アレルギーなのか、古い本を開くと必ずくしゃみの連続。苦手である。)
この本を熱心に読んだ頃は若かったから、自分が年老いた時、主人公の執事のような苦い後悔などするはずがないと思っていた。後悔のないように生きたい、などと意気込んで。
でも、30年近い時が過ぎた今は、やはり私も...という思いがいっぱいである。
まず、小説を読んだ。1992年頃だったと思う。物語は、WW2直前の時期のイギリスの貴族に仕えた執事の回想である。その貴族は、WW1以降インフレに悩むドイツへの純粋な同情心から、結果としてナチスの協力者となってしまう。終戦後は国民からの非難と失意の中で亡くなった。
執事は、自分の仕事に熱心で、自分の主人の思想に疑問も抱かず、また、同僚の家政婦ミス・ケントンとの淡い恋も逃してしまう。彼は、晩年になって、自分の人生を振り返りつつ、今は人妻となったミス・ケントンに会いに、古い車に乗って旅に出るのである。
旅をしながら、英国貴族として申し分ない人物だった主人、その主人がナチスを屋敷でもてなし、自分はそれを一世一代の大仕事として満足感とともにこなしたことなどを思い出す。
その仕事の最中に、ミス・ケントンの遠回しの告白を受けながら、それどころではなく冷たい対応をしたために、ミス・ケントンは去って行った。
仕事一筋だった人生は、今は苦い思い出となっているのである。
何かを期待して会いに行ったミス・ケントンとも、思い出を語り合うのみ。人生の落日の時、彼は今まで通り孤独であることを思いながら、また仕事へ戻っていく。
***
その翌年、ロンドンに行った時、ちょうど映画「日の名残」を上映中だったのだ。なんという偶然。神様のお導きのような気がして、大喜びで見に行った。当時、ロンドンの映画館は、料金が2種類あった。その高い方のチケットを買って、全部英語、字幕無し、の「日の名残」を観た。
私は、昔も今も英語は苦手である。それでも、原作を愛読していたおかげで、ストーリーや微妙な感情表現は全部理解できたように思う。
そんなこともあって、小説類を大幅に処分した時も、「日の名残」は残しておいた。
その20数年後、作者のカズオ・イシグロがノーベル賞を受賞した時、「日の名残」は文庫本になっていて、飛ぶように売れていた。
私は埃臭いハードカヴァーの「日の名残」を取り出して、くしゃみをしながら再読した。(アレルギーなのか、古い本を開くと必ずくしゃみの連続。苦手である。)
この本を熱心に読んだ頃は若かったから、自分が年老いた時、主人公の執事のような苦い後悔などするはずがないと思っていた。後悔のないように生きたい、などと意気込んで。
でも、30年近い時が過ぎた今は、やはり私も...という思いがいっぱいである。
木犀!/日本紀行 セース・ノーテボーム [本]
オランダ人の書いたものが読みたいと思って、セース・ノーテボームを読みだした。
セース・ノーテボームは1933年生まれ(85歳)のオランダ人小説家で詩人、旅行作家、エッセイスト。毎年ノーベル文学賞の候補に名前があがるほど、ヨーロッパでは有名な作家だというが、日本語で出版されている本はわずかだし、代表作がどれなのかすら私にはわからない。
上の写真の本は、小説「木犀!ーある恋の話」と、紀行やエッセイをいくつかまとめた「日本紀行」が収録されている。冒頭数ページを読むだけで、ノーテボームがいわゆる「日本文化」に大変に詳しい人であり、その日本文化と現代(書かれたのは1980年)の日本の間にある落差のようなものを、的確に見つめている人であることがわかる。
例えば、主人公アーノルト・ぺシャーズの友人の会話。この友人はベルギー大使館に勤務している。
「君は他のみんなと同じように、間違った考えを持って日本に来たんだ。そういう人は散々見てきたよ。谷崎の本を読んだり、あるいは「将軍」でもいいけどさ、広重の展覧会を見るとか、禅について何かを聞いたことがあるだけで、もう知っているような気になるんだ。それは本当に大きな誤解だよ。」
「彼ら(日本に来る西洋人)が求めているのは、オランダで誰もがランズロットを暗唱できるとか、フランドルがメムリングとブリュッゲのオールドタウンとルースブローク研究からだけ成り立っているというようなことなんだ。そんな国は過去の時間のなかにだけ存在するのであって、現在の空間にはもうないんだけどね。」
この後、彼らは連れ立って皇居へ向かい、天皇誕生日の一般参賀に加わる。さらに、主人公アーノルトと日本人女性「木犀」との恋愛と別れへと話が展開していく。
オランダ人による日本文化論がとても面白い。同時に、外国の文化を理解しようとして、どうしても自分のものにならない焦燥感のようなものに共感する。
***
2010年に出版されたこの本、出版してすぐの頃に一度購入して、その時はあまり面白いと思わず、適当に読み飛ばして処分してしまった。
それが、オランダ人の書いたものを読みたくなって思い出し、図書館で借りてきた。
読んでいくうちに、さらに、これはいつも手元に置いておきたいと思うようになって、結局また買うことになりそう。
あの時、手放さなければよかったのに。
タグ:セース・ノーテボーム オランダ
大江山のおに 輿田準一 [本]
実家の物置に、私が子供の頃に読んだ本がまだしまってあるというので、ダンボールごともらって来た。主に小学校の4年くらいまでに読んだ本で、いずれもひどく傷んでいる。
数十年経っているから当たり前だが、大人の事情として、当時の実家の経済状態が子供に好きなだけ本を買ってやれるほど裕福でなかったので、子供としては同じ本を何度も繰り返し読むしかなかったのだ。
懐かしい本の中で、真っ先に開いてみたのが、「日本おとぎ話集」の「大江山のおに」のはなし。
丹波の大江山に住む鬼たちが、都に来て姫君をさらって行くというので、源頼光と5人の武士たちが「天子さま」の命を受け、大江山へ鬼退治に行く、というストーリーだ。
姫君の行方を占い師に占わせたり、頼光と5人の武士が「はちまんじんじゃ」「すみよしのじんじゃ」「くまののじんじゃ」にお参りすると、その神社の神が「おじいさん」となって道案内してくれたり、鬼を弱らせる酒を授けてくれたり。子供心に、ワクワクドキドキしたものだ。
そして、鬼との対決。挿絵が、またいいのだ。
ちょっと、ギリシャ神話みたいな鬼だが。
「大江山のおに」の話は、のちに「御伽草子」に「酒呑童子」という全く同じ話を見つけて、「はた」と膝を打った。そして、子供の頃は漠然としていたものが、くっきりと浮かび上がって来たのだった。
この話、一条天皇の御代のこととある。武士たちは、源頼光、碓井貞光、卜部季武、渡辺綱、坂田金時、藤原保昌らで、いずれも実在の人物。占い師は、本によっては安倍晴明だという。鬼の首領「酒呑童子」の生い立ちや容貌まで、詳しく書いてある。(彼は越後の出身)
そして、子供の読み物にするために、残虐な場面は割愛してあることも知った。
例えば、鬼たちはさらって来た姫君たちを、最初は寵愛し、やがて手足を切り落としてその肉を食べてしまう。頼光らは、鬼たちを騙すために、酒宴で出されたその肉を食べてみせる場面がある。
また、鬼たちを退治し、その棲家を探索すると、殺された人たちの死骸で目も当てられない有様。さらに、昨夜の酒宴のために手足を切られ、息も絶え絶えの姫君がいて、「とどめを刺してほしい」と言う哀れな場面も。
「おとぎ話」というと、今は「子供向け」と考えがちだが、実はすごく・・・アダルトな感じがしないでもない。それもそのはず、元々は大名の話し相手をする「御伽衆」が編纂したものだというから。
私の「日本おとぎ話集」は、昭和期の児童文学者与田準一による再話で、監修として、川端康成、佐藤春夫、浜田廣介、村岡花子の名前がある。古き良き時代、という感じがする。この本を買って来てくれた私の父に、感謝。
***
手持ちの「御伽草子」はこれ。
数十年経っているから当たり前だが、大人の事情として、当時の実家の経済状態が子供に好きなだけ本を買ってやれるほど裕福でなかったので、子供としては同じ本を何度も繰り返し読むしかなかったのだ。
懐かしい本の中で、真っ先に開いてみたのが、「日本おとぎ話集」の「大江山のおに」のはなし。
丹波の大江山に住む鬼たちが、都に来て姫君をさらって行くというので、源頼光と5人の武士たちが「天子さま」の命を受け、大江山へ鬼退治に行く、というストーリーだ。
姫君の行方を占い師に占わせたり、頼光と5人の武士が「はちまんじんじゃ」「すみよしのじんじゃ」「くまののじんじゃ」にお参りすると、その神社の神が「おじいさん」となって道案内してくれたり、鬼を弱らせる酒を授けてくれたり。子供心に、ワクワクドキドキしたものだ。
そして、鬼との対決。挿絵が、またいいのだ。
ちょっと、ギリシャ神話みたいな鬼だが。
「大江山のおに」の話は、のちに「御伽草子」に「酒呑童子」という全く同じ話を見つけて、「はた」と膝を打った。そして、子供の頃は漠然としていたものが、くっきりと浮かび上がって来たのだった。
この話、一条天皇の御代のこととある。武士たちは、源頼光、碓井貞光、卜部季武、渡辺綱、坂田金時、藤原保昌らで、いずれも実在の人物。占い師は、本によっては安倍晴明だという。鬼の首領「酒呑童子」の生い立ちや容貌まで、詳しく書いてある。(彼は越後の出身)
そして、子供の読み物にするために、残虐な場面は割愛してあることも知った。
例えば、鬼たちはさらって来た姫君たちを、最初は寵愛し、やがて手足を切り落としてその肉を食べてしまう。頼光らは、鬼たちを騙すために、酒宴で出されたその肉を食べてみせる場面がある。
また、鬼たちを退治し、その棲家を探索すると、殺された人たちの死骸で目も当てられない有様。さらに、昨夜の酒宴のために手足を切られ、息も絶え絶えの姫君がいて、「とどめを刺してほしい」と言う哀れな場面も。
「おとぎ話」というと、今は「子供向け」と考えがちだが、実はすごく・・・アダルトな感じがしないでもない。それもそのはず、元々は大名の話し相手をする「御伽衆」が編纂したものだというから。
私の「日本おとぎ話集」は、昭和期の児童文学者与田準一による再話で、監修として、川端康成、佐藤春夫、浜田廣介、村岡花子の名前がある。古き良き時代、という感じがする。この本を買って来てくれた私の父に、感謝。
***
手持ちの「御伽草子」はこれ。
女には向かない職業 P.D.ジェイムズ [本]
この間、綾辻行人「水車館の殺人」の感想で、この作品のトリックに感嘆しながらも、
と書いた。そして、「私の好みではない」とも。
確かにね、私だって、目の前で「人が殺される」「バラバラ死体」「燃える死体」などという惨劇が繰り返されたら、震えたり、怯えたり、気絶して倒れたりするかもしれない(いや、気絶はしないかも)。それでも、建前としては、どんな時にも自分を見失わない強さのある女でいたい、などと思うのだ。
それでこの小説を思い出した。
主人公のコーデリア・グレイは、22歳。探偵事務所の共同経営者となって数ヶ月で所長のバーティが自殺したため、一人で探偵事務所を回して行くことになる。
その最初の事件は、息子の自殺の理由を調べて欲しいというもの。コーデリアは、マークの自殺前の生活を探りに、ケンブリッジ大学へ赴く。
一人の若者の生活を探る中で、彼の恋愛関係について聞き込みをしたり、部屋に落ちていたポルノチックな写真をつまみ上げたり、彼の性癖について考察したり、探偵がやるべきことを淡々とこなしていくコーデリア。
生まれて間もなく母が亡くなったことや、修道院で育ったこと、父とその仲間がコミュニストで、そのグループの小間使いのような役割を担わされて大学に行けなかったこと。そんな生い立ちのせいか、コーデリアの言動は冷静で、誰に対しても馴れ合うことなく、どこか乾いている。
何者かに古井戸に落とされる場面は、この小説のクライマックス。
泣くことも叫ぶこともせず、ひたすらに冷たい井戸の壁に足がかりを探し、自分の力で這い上がって行く。(「リング」の貞子みたい〜、などと言う冗談は、この際KYの極みである。)
この場面のコーデリアの健気さ、ひたむきさが、コーデリア・グレイをミステリー界有数のヒロインにし、「女には向かない職業」を古典にしたと言えるだろう。
文庫の解説の瀬戸川猛資氏は、「コーデリア」と言うシェイクスピアの物語に登場する名前と相まって、この場面を「塔の中に幽閉された姫君の図」と呼び賞賛している。
同じ「塔の中に閉じ込められた姫君」であるなら、私は断然コーデリアが好きなのである。若く美しく可憐なヒロインが、過酷な状況に陥れられても自分の身体と頭脳でひたむきにその状況に立ち向かって行く。怯えたり、気絶している場合じゃないのだ。
コーデリアがたった一度、感情を爆発させ泣きじゃくる場面は、だからこそ、彼女を抱きしめたいくらい感情移入させられてしまう。
題名の「女には向かない職業」のわけは、人間の卑猥さを目の当たりにすることや、このような身体的な過酷さすら乗り越えたコーデリアが、犯人と対峙したときに起こす感情の流れにあるような気がする。
1972年の作品。
たった一つの不満は、館の主人のうら若き妻の描写だ。震えたり、怯えたり、倒れたり。1980年代の女としてはありえない、古いタイプの女性。まるで「塔の中に閉じ込められた姫君」だ。
と書いた。そして、「私の好みではない」とも。
確かにね、私だって、目の前で「人が殺される」「バラバラ死体」「燃える死体」などという惨劇が繰り返されたら、震えたり、怯えたり、気絶して倒れたりするかもしれない(いや、気絶はしないかも)。それでも、建前としては、どんな時にも自分を見失わない強さのある女でいたい、などと思うのだ。
それでこの小説を思い出した。
主人公のコーデリア・グレイは、22歳。探偵事務所の共同経営者となって数ヶ月で所長のバーティが自殺したため、一人で探偵事務所を回して行くことになる。
その最初の事件は、息子の自殺の理由を調べて欲しいというもの。コーデリアは、マークの自殺前の生活を探りに、ケンブリッジ大学へ赴く。
一人の若者の生活を探る中で、彼の恋愛関係について聞き込みをしたり、部屋に落ちていたポルノチックな写真をつまみ上げたり、彼の性癖について考察したり、探偵がやるべきことを淡々とこなしていくコーデリア。
生まれて間もなく母が亡くなったことや、修道院で育ったこと、父とその仲間がコミュニストで、そのグループの小間使いのような役割を担わされて大学に行けなかったこと。そんな生い立ちのせいか、コーデリアの言動は冷静で、誰に対しても馴れ合うことなく、どこか乾いている。
何者かに古井戸に落とされる場面は、この小説のクライマックス。
泣くことも叫ぶこともせず、ひたすらに冷たい井戸の壁に足がかりを探し、自分の力で這い上がって行く。(「リング」の貞子みたい〜、などと言う冗談は、この際KYの極みである。)
この場面のコーデリアの健気さ、ひたむきさが、コーデリア・グレイをミステリー界有数のヒロインにし、「女には向かない職業」を古典にしたと言えるだろう。
文庫の解説の瀬戸川猛資氏は、「コーデリア」と言うシェイクスピアの物語に登場する名前と相まって、この場面を「塔の中に幽閉された姫君の図」と呼び賞賛している。
同じ「塔の中に閉じ込められた姫君」であるなら、私は断然コーデリアが好きなのである。若く美しく可憐なヒロインが、過酷な状況に陥れられても自分の身体と頭脳でひたむきにその状況に立ち向かって行く。怯えたり、気絶している場合じゃないのだ。
コーデリアがたった一度、感情を爆発させ泣きじゃくる場面は、だからこそ、彼女を抱きしめたいくらい感情移入させられてしまう。
題名の「女には向かない職業」のわけは、人間の卑猥さを目の当たりにすることや、このような身体的な過酷さすら乗り越えたコーデリアが、犯人と対峙したときに起こす感情の流れにあるような気がする。
1972年の作品。
水車館の殺人【謎解き編】 [本]
2019-05-10 00:29
水車館の殺人 綾辻行人 [本]
「十角館の殺人」に続いて、「新本格」も佳境に入る綾辻行人の2作目。
十角館のところに、「私はそういう(名探偵、大邸宅、絵空事のような惨劇と大トリック)作品が大好き」なのだ、と書いた。確かに、水車館の殺人は、水車と塔のある大邸宅、雷の夜の惨劇、白いゴムの仮面の主人、20歳も年下の美少女の妻、と、まあ「これでもか」という大掛かりな道具立てなのである。
ところが、実は未だ完読できない。
何となく、犯人が分かっちゃったような気がして。
いや、最後まで読まなければ、事件の詳細は決して明らかにならないことは分かっている。でも、白いゴムの仮面を被った男が出てきた時点で、中身がすり替わっていると考えるのは自然。(だって、つい角川映画の「犬神家の一族」を連想してしまうから)
物語の構成は、1985年と1986年の9月の出来事が、交錯しながら描かれている。85年の方は誰のというわけでなく俯瞰した視点から、86年の方は白い仮面の主人の独白の形で。
この視点の違いによって、巧妙に犯人が誰なのか隠されている(ような気がする)。
でも、最初から「白い仮面の男」を怪しいと思ってしまったら、やっぱり、違うんだよね。85年と86年では。(そんな気がする)
というわけで、なかなか先へ進まないうちに、他の本に手をつけなどして、うだうだ。
この作品を完読して結末を知っている人は、きっとこの文を読んで、「ばかだなあ」と冷笑するかもしれない。全く意外な犯人、意外な結末、意外な動機や犯罪の背景が、この先に描かれているのかもしれない。
だから、完読したらここに戻ってきて、謝罪なり勝利宣言なり、させてもらうことにします。
全くのハズレで、謝罪することになったら、どんなお叱りも、あえて受けることにします。
***
2019年5月9日 完読したので、書き込みます。
微妙。勝利とも敗北とも、言い難い。多分、敗北に近い。(でも、謝罪はしなくて良さそう)
Aが、BとCを殺し、Bと入れ替わる。死体はBのもの。ではCの死体は?
と、考えていたけれど、
Aが、BとCを殺し、Bと入れ替わる。死体はCのもの。ではBの死体は?
という展開だった。
結局、私に分かったのは、白いゴムの仮面の人物が入れ替わっているということと、動機に女性が関連していることだけ。後の詳細は、全くわかっていなかった。綾辻行人のトリック構成は凄い。
たった一つの不満は、館の主人のうら若き妻の描写だ。震えたり、怯えたり、倒れたり。1980年代の女としてはありえない、古いタイプの女性。まるで「塔の中に閉じ込められた姫君」だ。
やはり、本格ミステリーには、豪邸、嵐、壮大なトリック、血まみれの惨劇、に加えて、このような「美女」の存在が欠かせないのだろう。でも、私の好みではない。
タグ:日本のミステリ
十角館の殺人 綾辻行人 [本]
1987年の作品。
「新本格ミステリ」のさきがけ的作品とのこと。
新本格ミステリとは、何か。
「十角館の殺人」の冒頭で、ミステリー研究会の青年によって語られるこのようなセリフがわかりやすい。(長いが、引用する。)
「僕にとって推理小説(ミステリ)とは、あくまでも知的な遊びの一つなんだ。小説という形式を使った読者対名探偵の、あるいは読者対作者の、刺激的な論理の遊び(ゲーム)。それ以上でも以下でもない。
だから、一時期日本でもてはやされた”社会派”式のリアリスム云々は、もうまっぴらなわけさ。1DKのマンションでOLが殺されて、靴底をすりへらした刑事が苦心の末、愛人だった上司を捕まえる。––やめてほしいね。汚職だの政界の内幕だの、現代社会のひずみが産んだ悲劇だの、その辺も願い下げだ。ミステリにふさわしいのは、時代遅れと云われようが何だろうがやっぱりね、名探偵、大邸宅、怪しげな住人たち、血みどろの惨劇、不可解犯罪、破天荒な大トリック…絵空事で大いにけっこう。要はその世界で楽しめればいいのさ。ただし、あくまで知的に、ね。」
いわんとするところは、大いにわかる。
私はそういう(名探偵、大邸宅、絵空事のような惨劇と大トリック)作品が大好きなのである。
だから、孤島の奇妙な屋敷「十角館」にやってきた大学生7人が次々と殺されていく、という、文庫本の後ろのあらすじを読んだだけで、クリスティの「そして誰もいなくなった」を連想して、これは絶対に読まねばならぬ、と思った。
確かに、クリスティ「そして誰もいなくなった」に本当によく似ている。そして、そこにもう一枚、過去に同じ島で起こった男女4名の殺人事件が絡んできて、物語はさらに複雑。
しかし、人物設定がわかりやすく、感情移入しやすい。
トリックも手が込んでいるし、動機も納得がいく。
そして、長い物語にのめりこんで、あと残りわずかなのにまだ犯人がわからない、と思っているうちに、謎が一瞬にして解ける。そのあまりにも鮮やかな展開。
これはすごい作品だ。
海外ミステリが好きで、今まで国産は敬遠してきたが、これは、考えを改めなくてはと心底思った。
タグ:日本のミステリ
予告殺人 アガサ・クリスティー [本]
昔読んだ本だが、最近テレビでドラマ化されたので、記事にしておく。
昔、アガサ・クリスティーのミス・マープル物をいくつか友人に勧めたら、「面白くなかった」という感想で、大変に凹んだことがあった。「予告殺人」は、その一つ。
人にはそれぞれ好みがあるから、こういう「何の変哲もない田舎が舞台」で、「老婆が探偵役」の推理小説は退屈だとする人がいてもおかしくはない。
でも、「予告殺人」は、私の大のお気に入り。動機といい、トリックといい、時代の雰囲気といい、名作だと思っている。「鏡は横にひび割れて」「パディントン発4時50分」「ポケットにライ麦を」などとともに、イングランドの田舎の牧歌的な世界の良さを、わかってもらいたいと思うのだ。
「予告殺人」の背景は、第二次世界大戦後の混乱した時代。
海外に住む親類が、今はどうしているかわからない。長く離れていた甥や姪が、同居させてくれと頼ってくるが、実はそれが本物かどうかは確信が持てない。銃の使い方を、案外みんなが知っている。戦死、病死など、「死」が今よりも身近にあった、そういう時代である。
「殺人お知らせいたします。」という新聞広告を読んだ村の人が、何かのゲームだと思い、レティシア・ブラックロックの家に続々と集まってくる。そして、停電で真っ暗になり、ドアが開き、強盗らしき男がホールドアップを叫ぶ。しかし、銃声とともに、本当に死んでいたのはその強盗。レティシアの耳は銃弾が掠めた傷で血まみれ。
レティシアは、あと数週間すれば、大金持ちの遺産を受け取るという身分。彼女が死ねば、その大金持ちの遠縁に財産が行く。狙いはレティシアの殺害か?
というわけで、お約束の、村中がみんな容疑者、みんな怪しいという事態に。
しかし、本当に狙われたのは、その強盗の男の方だった。彼はそうとは気がつかず、犯人の重大な秘密を知る存在だったのだ…。
***
先日のドラマ化では、舞台は現代の日本。
レティ、ロティ、という「呼び名」が事件の重要な鍵となるのだが、「レイリー」「ロウリー」という、どこの国の話、という名前に変えられていて違和感。さらに、登場人物みんながヘンテコな当て字のキラキラネームにされていて、それもゲンナリ。日本の名前でも、十分に成立したと思えるのに。
それに、現代の日本では、遠縁で馴染みのない若者をいきなり同居させるだの、戸籍情報のすり替えだの、あまり現実味がない。つまり、時代背景を日本の現代とすると、物語そのものの成立が怪しいのだ。戦後の混乱期に設定すればよかったのにと思う。
そして、せっかく「マープル物」なのだから、探偵は中高年の女性にしてもらいたかったなあ。
「大地真央は、いくつになっても綺麗ね」というのが、最終的な私の感想。
せっかくのドラマ化が、ちょっと残念な結果に終わった。
ねじれた家 アガサ・クリスティー [本]
大きな屋敷に住む大家族。
大金持ちの実業家の老人が、インシュリンのかわりに目薬を注射されて、死亡する。
若い後妻。その愛人。
長男夫婦。
次男夫婦。その子供達3人。
チャールズ・ヘイワード青年は、この家の次男の娘ソフィアと婚約中。
父が警察の偉い人なので、コネをつかってこの家に潜入し、殺人犯人を捜す。
探偵役のチャールズが警察の偉い人の息子、ということで、なんとなく浅見光彦みたいなのだが、とにかくみんなみんな怪しい。だれが犯人でもおかしくない。みんなが老人を殺す動機を持っているのだ。
そして、第二の事件がおこり、とっても意外な犯人が明らかになる。
・・・と語ると、だいたいいつものクリスティーのパターンで、特に変わりはないような印象を持たれるかもしれない。しかし、この「ねじれた家」は、私個人としては、いつもとぜんぜん違う、と言いたいのだ。
いつものクリスティーだったら、
・事件はもっとブラッディだけど、パズルじみて、悲惨でない。
・もっと何回も殺人が起こる。
・動機、方法、その後の推理が、もっと理論的。
でも、これは違う。「ねじれた家」は
・殺人は毒殺で、だれにでもできる方法。血みどろではない。でも、陰惨な感じがする。
・殺人は、冒頭に一回だけ。あとは未遂。
・なんだか、いろいろ曖昧なんだよね。
かつて、クリスティーは、語り手が犯人、登場人物全員が犯人、全員が死ぬ、など、従来の探偵小説のセオリーを壊すことで斬新なトリックを創造してきたわけだけれど、これも、セオリーから外れている作品なのかもしれない。アガサ自身も、「ねじれた家」を自分のお気に入り作品の上位に入れているという。
つまらない作品ではない。
解明のヒントはいろいろちりばめられているのも、さすがだ。
でも、私の好きな部類ではないかも。
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